全9回の篆書講座の最終回を終えて、はや2ヶ月ほどになります。書道に興味もないのに、篆書に興味があったという理由で、経験ゼロから3ヶ月。その間に、様々学んだことをメモしておくことにします。

キッカケ

最初に篆書を生意識したのは、昨今のロゴデザインの書籍を眺めていたときでした。日本語ロゴの文字の形態を見て「これってつまり篆書じゃないかな?」と感じていました。そんな時、別の書籍を探しにいった図書館で『篆書 入門から応用まで』という書籍を偶然手にとります。この書籍は、書道としての篆書ではなく、なんでもいい、鉛筆でも筆ペンでもいいから篆書を書いてみろ、という内容の書籍でした。書道には、細かな規則が大変多いので、必ずしも筆で書かなくてもいいというのです。篆書の本としてはかなり珍しいのではないかと思いますが、「構造体」としての篆書に興味のあった私には、目からウロコでした。私はこの書籍を通じて、篆書を少し身近なものに感じるようになっていました。

このときの私にとっての篆書はシャーロック・ホームズの『踊る人形』でした。私は『踊る人形』の話が子供の頃から大変気に入っていて、篆書の天真爛漫なイメージは、まさにあの「人形」のように見えていました。後になって、篆書は時代の変遷でいくつかの種類に分類されることを知るわけですが、私にとって篆書とは「小篆」のことを指していました。毎日モニターで「書体」を見て仕事をしているわけですから、篆書も私にとっては「書体」として、枠に嵌まるものとして認識されていました。

講座のテーマがたまたま「金文」だった

何も知らずに飛び込んだ篆書講座で「あ、篆書って書道だった」と思ったのは上記の流れの中での出来事でした。私は篆書を書くことに夢中で、それが「書道」であることは二の次というか、殆どどうでも良かったわけです。だから最初は、困ったなあ、うっかり書道を始めちゃった、というスタートです。そして、篆書講座のその期のテーマは、たまたま「金文」でした。順番で言うと、甲骨文を最も古いものとして、その次の時代の字形です。私の知る活字のような小篆とは随分違った文字でした。最初は絵のような字のような字面に面食らった部分もありましたが、いざ書いて(描いて)みるとこの自由奔放な文字が、マス目に整った小篆よりもずっと魅力的な気がしてきました。私にとって金文は、半分「文字」・半分「絵」でした。だから字を書いているというよりも、半紙の中に図形を収めているような気分で書いていました。先生が書かれた手本にどこまでも「そっくり」に、書きたいと思ったのは、自分が当たり前に書くことができる「文字」ではなく、全く見知らぬ「図形」としてそれを捉えていたからでした。

人の感想で自分を知る

篆書講座の最終回は、作品の講評会です。先生の講評以外に、それぞれの作品について、自分以外の全員の作品について点数を付け「印象」「良い点」「改善点」などを無記名で記入し、本人に渡すというなかなかおもしろい試みがありました。さて、私の作品への感想について、同じ感想がいくつかありました。同じことを感じる人がいるということは、それなりに何か理由があるということです。ひとつは「可愛いい文字」であるということ。もうひとつは「絵画的」であると点でした。皆さんのこの感想を見て、なるほどごまかせないものだな、と私は感じました。確かに私にとって篆書は「可愛いい文字」でした。丸文字やクセ字の可愛さとは違ったものですが、私の目に映る篆書は一種の人格を持ったキャラクターでした。書いている本人が可愛いと思っているので、見ている人にそれが伝わるのは、ある意味正しいことです。もうひとつの絵画的であるという点についても、上記に書いたように私にとっては「図形」だったのですから、それも正しく伝わっていることになります。3ヶ月の講座の中で、私の頭の中では小篆よりも金文や甲骨文の方が魅力的に変化していました。金文の奔放さに触れてしまった後では、小篆は活字とあまり変わらないように見えて来る。皆さんの感想を眺めながらそんなことを考えていた私の頭の中に、一人のスペインの画家の絵が浮かんできました。Joan Miroです。

Miroから現代書道まで

そうだ、金文や甲骨文はMiroだ、と思いました。そうやって改めてMiroの作品を見てみると、どちらが書道でどちらが絵画なのかわからないくらいの気持ちになってきました。この段階で私には、書道の作家や流れについての知識は殆どゼロです。だからMiroを思い出したのも単なる偶然・直感に過ぎませんでした。書道の展示する一度も見たことはありません。私は篆書講座の講師がくれた年始の「現代書道二十人展」のチケットの裏面に気が付きました。このチケットを持参すると『上野アーティストプロジェクト2018「見る、知る、感じる──現代の書」』が100円引きで鑑賞できる、という内容でした。100円引きはどうでも良かったのですが、私はこのプロジェクトを見たいと思いました。そして見に行きました、見に行ってどうなったか?更にその展示のおまけのように公開されていた『喜怒哀楽の書』という展示にも立ち寄りました。そこで私は、興味深いものに出会います。上田桑鳩の『愛』という作品です。その作品の横には、その作品についてのいわくが書かれていました。展示会のPDF(下記)に同じ内容が書かれています。

落語協会の分裂騒動(『小説・落語協団騒動記』)を思い出すような話です。私はこういう顛末にはとても興味があります。前衛は、最初にそれを始めた人、その登場そのものに最も意味があると思うからです。好き嫌いは別として、パンクはSEXピストルズに最も意味がある、ということです。私はまず家に帰って、Yahooオークションで『上田桑鳩の世界』という書籍を手に入れました(あまりに大型書籍でびっくりしましたが・・・)。続けざまに上田桑鳩の影響下にあった現代書道家井上有一の展覧会カタログ(『井上有一1955-1985』)をamazonで手に入れ、YahooオークションでJoan Miroの分厚い展示会カタログと『宇野雪村の美』というカタログも購入しました。何故そんなに夢中になったかわかりませんでしたが、とにかく「見たい」という気持ちが強烈にあったのです。

ここまで書いてきて、この話にどうまとまりをつけるのか、私は決めていません。というかこの話はまだまだ繋がり広がっていくのです。文字の起源ということを探れば当然にそれは、白川静に繋がっていきます。中国のみならず古代ということに思い馳せるていくと、それは折口信夫という人に繋がります。作品を書こうとして漢文を読んでいくうちに、押韻を学びそれは漢文だけでなく英詩へも繋がっていきます。ついでに私は西洋カリグラフィーも学習中です。文字そのものに意味のある漢字と、文字が記号として働く英字というある意味対極にある文字を同時に描いていたわけです。

私は、そこそこ読書が好きな人間だから、何かを始めるに際して「全く無」であることは殆どありません。いつもある程度の基礎知識を持って事にあたります。カリグラフィーに関してもそれは同じでした。ただひとつ、書道だけは本当に何も知らずに偶然始めてしまいました。今でも「書道についての書籍」を読みたい衝動にひどく駆られます。でも、今回だけはこのまま「読まずに進もう」と思っています。「●●についての本」はとても便利な指南書です。私たちが迷子にならないように合理的に早く正しく導く「地図」です。でも今回はこの地図を持たずに、ただ目の前の手本と半紙だけで進んでみたいと考えています。自分で道を探してみたいと思っているからです。探した道はおそらく、誰もが当たり前に見つける平凡な道でしょうが、それでも自分で道を発見する楽しみを書道についてだけは残しておきたいと思っています。