客観性と先生の話

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人にものを習うということ自体、若い頃は深く考えたこともなかったのですが、「人生をかけてそれを行っている人からものを習うからには、習う方にも礼節と覚悟が必要だ」と、最近はそう考えるようになりました。(遅いよ!)

私の着けているGermin245は心拍がとれる腕時計ですが、こいつが結構うるさいのです。「もっと寝てください」とか「このままではこれ以上のフィットネスの向上は見込めません」とか、本当うるさい。でもこのただの機械の意見、以外に気なるのです。「はいはい分かってますよ、外で運動しろ、でしょ?」とか「わかりましたよ、寝ますよもうちょっと」などとつい時計に話しかけてしまう。時計に諭されるのが嫌で、トレーニングの計画を思わず立ててしまう。時計と会話している自分もどうかとは思いますが、この「会話」が侮れなく大事なのです。

篆書の先生は、「自分の書いたものに自分で赤が入れられるようになって欲しい」ということを再々おっしゃいます。かなりの頻度でおっしゃっている。本でも会話でも頻出する言葉はそれくらい大事だということですが、つまりそれが講座の目標のひとつ、ということなのでしょう。かといって、自分の作ったものを客観的な目で見ることは簡単ではありません。そういう時にまず出来ることは、●●先生だったら、なんと言うだろうか?と先生のセリフを想像してみることです。(大概先生の口癖というのはきまっているので、できるだけ具体的に想像するほうが効果があります、私の場合)相手を思い浮かべると、多少は客観性を獲得することができます。

カリグラフィーの方はRomanCapitalのスケルトンの練習中です。スペーシングが、恐ろしく厳密なので、1つの単語を書くだけでも大層な時間がかかります。結局ペンの段階になったら、自分の感覚で間隔をとらなければならなくなるのですが、先生は「今スケルトンをみっちりやっているのは、このきれいな形を頭に焼き付けて欲しいんですよね」とおっしゃってました。文字を書く時いつも思うのすが、頭の中にないものは書けないのです。書くことはもちろん大事ですが、目指すものが白い紙の上に浮かんで来るほど、見ること=頭に焼き付けることも大事です。デスクの前に貼り付けて、ちょっとした隙間の時間に眺める方法でいいとい思うのですが。

RomanCapitalをブラシ並みにペンで書く方を発見しました。書籍では、ここまでセリフをきっちり付けたローマンキャピタルはあまり見かけない。でもペンでもここまできるのか!筆のようにペンを回転させるの??やってみたい、奥が深いよ。

カリグラフィーでも書道でも、最終的に「自分の文字」を書くところに至る前に、「型」の習熟があり、これを「自分の文字」にどう活かすかが難しいところになるのだろう、と想像します。ただ綺麗に書くだけじゃつまらないし。西欧のカリグラフィーは特に、各書体が厳密なルールの上に成り立っているので、ここから出て行くことは非常に難しいのではないでしょうか。その時に、別の意味で先生の力が必要になる気がします。

先生が賢かったり厳しかったりすると、ほとんどダメ出ししか浮かんで来ません。それが「人がいる」ということの意味です。独学ではどうしても「あの人だったら何と言うだろう?」が弱いんですよね。具体的な人物じゃないので。ストイックな方なら、自分で自分を許さないことが可能だと思いますが私はゆるい人なので、私を許さない誰かの力が必要なのです。ああ、これも甘え、ですかね。(と、ある先生なら言うかも)