コーヒー、右手で淹れるか左手で淹れるか
右利きが左手を使うということ
先月ちょっとした手術で、胸腔鏡手術をした(この件については別記事を執筆中)。
そのため、右脇の下に6cm程度の傷がある。私の利き手は右。傷はそれほど痛くもないのが、なんとなく左手を意識的に使うようにしていた。それで気がついたことなのだが、左手を有効に使うには、利き手ではない左手の能力以上に、左手を使うための動作や物の配置が重要なのである。
左手の能力ではなく「左手が登場しない仕組み」
右利きの人は、ほとんどの動作を考えずに右手から始める。
コップを取る。ドアを開ける。スマートフォンを持つ。調味料を使う。バッグから鍵を出す。どれも、物が右手で取りやすい場所に置かれ、右手から始める一連の動作として身体に記憶されているからだ。そこで「今日は左手を使おう」と思っても、左手だけを差し替えることができない。
コップが右にあれば、わざわざ身体をひねって左手を伸ばすことになる。右側にある引き出しを左手で開ければ、腕が身体の前を横切る。左手で道具を持ったものの、次に使う物が右側にあるため、途中で動作が詰まる。
つまり、左手が劣っている以前に、左手が参加しにくい動線が確立されている。
一つの動作は、実は一つではない
「コーヒーを入れる」は一つの動作に見えて、実際には、
- カップを取る
- ドリッパーを置く
- 袋を開ける
- 粉を入れる
- ケトルを持つ
- 注ぐ
- 片づける
という小さな動作の連続。このうち一つだけを左手に変えるのは、それほど難しくない。でも、前後の動作が全部右手向けのままだと、結局どこかで右手に戻ってしまう。左手を使うには、「左手で物を持つ」よりも、「左手から始まる一連の手順」を作らなければならない。これが案外難しい。
これをもう少し抽象的に言い換えると、
能力の問題に見えていたものが、実はワークフローの問題だった。
ということになる。
意志よりも配置のほうが強い
人は「左手を使おう」と決めれば左手を使えると思いがち。でも1つの動作のために、必要な事前動作が結構ある。しかも最終動作を左にするには、先行動作を右で行う必要がある。(でないと途中で持ち替える、などの不要な動作が増える)洗い物をするだけでも、片手に食器を持ち、片手にスポンジを持つ。左でスポンジを持つ前に、右手で食器を持つ動作が先行する。
つまり、最初に食器を右で持てば、自然とスポンジは左手の役目になる。
少し怖いほど単純な論理。意志で身体を変えようとするより、配置によって身体の動きを変えるほうが簡単なのだ。
たとえば「水をもっと飲もう」と決心するより、目に入る場所へ水を置く。「スマートフォンを触らない」と我慢するより、手の届かない場所へ置く。片づけが苦手なら、頑張って習慣化するより、戻す場所を動作の途中に作る。人の行動は、本人の性格や意志だけで決まっているわけではなく、物の配置にかなり決められてしまう――
「できない人」の意味
何かをうまくできないとき、私たちはすぐ「能力がない」「不器用だ」「注意が足りない」と自分に原因を求めがち。で、反省した気分になって、気分だけで終わる日々。(日本人は反省が好きだが、反省だけではあまり役に立たないという残酷な現実もある。かくいう私も反省ばかりしている)
でも、その人が動きにくい環境になっている可能性もある。
- 高齢者が操作できない機械
- 左利きの人が扱いにくい道具
- 初心者には入口が見つからないソフト
- 必要な情報まで何度も画面を移動させるサイト
- 片手がふさがっていると使えない設備
健常で、慣れていて、両手を自由に使える時には見えない設計上の問題が、身体に制限が生じた途端に見えてきたわけだ。
コロナ禍になる前に、某大学の篆書書道講座に参加していた時に、講師の先生が言っていた。
「毎日筆に15分でもいいから触れる(毎日書く)方が、週に1回何時間も書くより大切だよ。・・・毎日書くには、いつでもすぐに書けるように、道具を一式机の上に出しておくといい。」
何かが続かないとき、自分の意志の弱さを責める前に、まず道具を机の上に出してみるといいのかもしれない。


