1年ぶり、某大学のオープンカレッジ篆書講座に通ってます。(その気になれば調べはすぐつきますが・・・)そしてあろうことか、私は篆書以外の書道の経験は、小学校の「習字」しかなく、篆書も昨年3ヶ月習った程度です。

目の前で見ること

講座は少人数ですので、前の週の授業の課題を各々家で書き、それに赤を入れて頂く形式です。何がいいかと言いますと、赤を入れている間、筆の動きを間近で見られることです。書籍では出来ない体験です。DVDで見ることは出来ても、筆の呼吸も含めた現場全体を感じることは流石に出来ません。

聞き耳を立てる

面白いのは、他の方の添削の際の話の内容です。その会話、やり取りの中から読み取れるものがあります。
この講座は全日程の2/3程度までは臨書、その後作品制作という流れを取ります。篆書は、元来筆で書かれた文字ではなく、青銅器などに鋳込まれた文字や亀甲に刻された文字です。(Roman Capitalが石に刻まれた文字であることを思い出します)残された青銅器には完全な字形が読めるわけではないので、拓本からどのように文字を起こすかは、ある程度個人に委ねられています。ですが、初心者には拓本から文字を起こすのは難儀なので、その場合は先生に手本を書いていてもらいます。
他の書体の経験はあり、篆書は初めてという方は大概先生の手本を欲しがります。その場合先生は「まず、自分で書いてみて欲しい」と言います。生徒さんは「どうしていいか分かりません」と言ってやはり手本が欲しいと訴えます。「僕が書いちゃうと、皆さんその時点で頭をつかわなくなるでしょう?何も考えずに書くだけになっちゃうから、まず自分で書いてみて欲しいんですよね・・・」とこの応酬が何度か繰り返されます。その内容を見てその人の力量を見たい、というのが先生の思惑かと思いますが、それが分かるだけに「私、力量なんてないので」と言いたい生徒さんという構図です。右左がわからない状態で、答えのない問いに答えなければならないストレス、それが人を成長させるということかな。

文字と空間

添削中に先生から言われたことですが、書道の各書体の中で、空間的として文字を見るのは篆書にしかありません。勿論、他の書体でも空間はあるわけですが、それは空間を意識して書いているというよりは、あくまで文字の形ありき。残った空間(つまり白の部分)を考えているわけではない、というところでしょうか。

考えてみると、無自覚に篆書の講座(他の書体ではなく)を選んだのには、それなりに理由があったのかもしれない。初心者の私は人生において筆を持っている時間が他の方に比べて圧倒的に短い。篆書には象形文字という図形に近い側面があり、蔵鋒で一定の筆圧で書くため、デザインに近い側面があるように思います。文字の黒の部分ではなく白(余白)側を見る、というのはカリグラフィーやタイポグラフィーでは基本事項です。ですから初心者でも出来ることがあるように感じたのかも。といってそれだけでは書道にならないですが。

来週からは臨書を終えて、またしても作品制作です。ああ、嫌だ。考えることが一気に増えるので。今年は正岡子規か夏目漱石の漢詩を書きたいと思ったのですが、近代詩は調べるとほとんど「金文」の文字がない!金文を書くのに、その時代になかった文字ばかり、というのもなんかな。じゃあ、金文の時代に近い詩文ならどうかと思ったのですが、それでも全文字は揃わないものなのだ・・うーん、沼が深い。